工場長から市会議員に
「市会議員にならないか」とのお話をいただいたとき、私は44歳でした。こんな私に果たして務まるのだろうかと随分悩みましたが、よく考えてみると私の人生で元気に仕事ができるのは後16年ほどでした。 |
生れ
1962年、昭和37年7月2日、尼崎市の園田で生まれました。
この年、公明政治連盟の参院議員の戦いによって、義務教育の教科書の無償配布が決定、公明党の前身である公明会が誕生。
堀江謙一が単独無寄港太平洋横断。中尾ミエが歌う「かわいいベイビー」が大ヒット。
幼少
5歳のとき、両親が離婚。母親に引き取られ、祖母の家で、母と祖母と3人で暮らしました。母は生活のため、昼も夜も働きに出ており、ほとんどの時間を祖母と二人で過ごしました。
この祖母は、明治生まれの大変厳しい人で「佐賀のがばいばあちゃん」を地で行くような人でした。
この祖母との数年の生活で、良い意味で大きな影響を受けました。
少年
8歳のとき、母が再婚し名字が現在の「多田」になりました。妹が生まれ、めんどうみのいい優しいお兄ちゃんだったと思います。
昭和50年宝塚市立長尾小学校卒業。
中学時代には、柔道部で汗を流しました。得意技は背負い投げで、団体戦では中堅でした。
昭和53年宝塚市立南雲雀丘中学校卒業。
高校
高校時代は格闘技が好きで、少林寺拳法やキックボクシングをやっていました。
見た目はコワい感じですが、美術部の部長もしていて、油絵を描いたりもしていました。
昭和56年兵庫県立宝塚東高校卒業。
大学
昭和56年、実家が鉄工所を経営していたこともあって、後を継ぐ意味で近畿大学の商経学部に入学。
この頃一生懸命に取り組んでいたのが、宝塚市が支援する青少年育成ボランティア団体「どんぐり」の活動でした。市内にある150を超える子ども会から出動依頼を受け、クリスマス会やキャンプファイヤーなどのイベントに出かけ、行事の進行役や楽しいゲームを教えたりしていました。
昭和60年近畿大学商経学部卒業。同じころ、一家で池田市の石橋に転居しました。
結婚
昭和63年1月17日、妻の智子と結婚しました。
しかし平成7年の同じ日に阪神大震災がおこり、それ以来、はでな結婚記念日はひかえています。
現在、一男一女の子どもたちと4人家族で元気いっぱいに暮らしています。
職歴
昭和60年 多田鍛工㈱ 入社
大学を卒業してすぐに実家の鉄工所で働き始めました。
平成4年 サンカルト・エンジニア(有) 入社
航空写真測量の図化オペレーターとして勤務。
平成11年 ㈱キノシタ 入社
平成13年 三豊鋼業㈱ 入社
その後5年間、工場長として勤務。
趣味
趣味というよりもほとんど仕事になりますが、お絵かきパズルのプロの作家をしていました。
平成7年 白夜書房「お絵かきパズルランド」誌にて、プロとしてデビュー。以来10年ほど活動していましたが、市会議員立候補と同時に辞めました。
パズルはパソコン(Mac)にて製作します。締め切り間際になると徹夜もしばしばあり、肉体労働の身にはかなりきつかったです。しかし私の作品のファンもいたらしく、その方々に喜んでもらおうと頑張っていました。
原点
公明党の支持団体である創価学会において、多くのことを学ばせていただきました。
青年部時代は、徹底して訓練を受け、池田・豊能・能勢・箕面そして豊中を担当し、それぞれの地で多くの仲間とともに数々のドラマを築かせていただきました。仕事も鉄相手の体力仕事でしたが、とことんやり抜いてきました。
信条
多くの方々の真心、公明党支持者のご支援に感謝し、師弟の誓いを果たすために、全身全霊を傾けて走りに走っています。
『ただ』ひたすら池田を愛する情熱の人。
「安心・安全のまちづくり」「ヒューマニズム教育の確立」「豊かな環境の実現」「子育て支援と福祉社会の実現」「新しい文化の創造」を目標に掲げ、未来を託す子どもたちが安心して暮らせる街、市民が誇りを持てる元気で魅力のある池田市をつくるために、誠実に真剣に戦います。
現在
平成20年度
厚生委員会 副委員長
環境問題特別委員会 副委員長
市議会だより編集特別委員会 副委員長
財産区運営審議会委員
連絡
多田隆一後援会
郵便: 563-0043
住所: 大阪府 池田市 神田 1丁目 27-20
Tel: 072-753-6862
Fax: 072-737-7678
Mail: mail@r-tada.com

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