プロフィール

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生れ

01.jpg 1962年、昭和37年7月2日、尼崎市の園田で生まれました。

 この年、公明政治連盟の参院議員の戦いによって、義務教育の教科書の無償配布が決定、公明党の前身である公明会が誕生。

 堀江謙一が単独無寄港太平洋横断。中尾ミエが歌う「かわいいベイビー」が大ヒット。

幼少

021.jpg 5歳のとき、両親が離婚。母親に引き取られ、祖母の家で、母と祖母と3人で暮らしました。母は生活のため、昼も夜も働きに出ており、ほとんどの時間を祖母と二人で過ごしました。

 この祖母は、明治生まれの大変厳しい人で「佐賀のがばいばあちゃん」を地で行くような人でした。

 この祖母との数年の生活で、良い意味で大きな影響を受けました。

少年

031.jpg 8歳のとき、母が再婚し名字が現在の「多田」になりました。妹が生まれ、めんどうみのいい優しいお兄ちゃんだったと思います。

 昭和50年宝塚市立長尾小学校卒業。

 中学時代には、柔道部で汗を流しました。得意技は背負い投げで、団体戦では中堅でした。

 昭和53年宝塚市立南雲雀丘中学校卒業。

高校

名称未設定-1.JPG  高校時代はボランティア活動として、子供会の運営などに汗を流しました。夏はキャンプ、冬はクリスマス会など、本当に楽しかったです。
 その他にも、少林寺拳法やキックボクシングをやっていました。美術部の部長もしていて、油絵を描いたりもしていました。

 昭和56年兵庫県立宝塚東高校卒業。

大学

051.jpg 昭和56年、実家が鉄工所を経営していたこともあって、後を継ぐ意味で近畿大学の商経学部に入学。

 この頃一生懸命に取り組んでいたのが、宝塚市が支援する青少年育成ボランティア団体「どんぐり」の活動でした。市内にある150を超える子ども会から出動依頼を受け、クリスマス会やキャンプファイヤーなどのイベントに出かけ、行事の進行役や楽しいゲームを教えたりしていました。

 昭和60年近畿大学商経学部卒業。同じころ、一家で池田市の石橋に転居しました。

結婚

071.jpg 昭和63年1月17日、妻の智子と結婚しました。

 しかし平成7年の同じ日に阪神大震災がおこり、それ以来、はでな結婚記念日はひかえています。

 現在、一男一女の子どもたちと4人家族で元気いっぱいに暮らしています。

職歴

8DH8FEA82C593AD82AD.gif昭和60年 多田鍛工㈱ 入社
大学を卒業してすぐに実家の鉄工所で働き始めました。

 平成4年 サンカルト・エンジニア(有) 入社
航空写真測量の図化オペレーターとして勤務。

 平成11年 ㈱キノシタ 入社

 平成13年 三豊鋼業㈱ 入社
その後5年間、工場長として勤務。

趣味

pazul.jpg 趣味というよりもほとんど仕事になりますが、お絵かきパズルのプロの作家をしていました。

 平成7年 白夜書房「お絵かきパズルランド」誌にて、プロとしてデビュー。以来10年ほど活動していましたが、市会議員立候補と同時に辞めました。

 パズルはパソコン(Mac)にて製作します。締め切り間際になると徹夜もしばしばあり、肉体労働の身にはかなりきつかったです。しかし私の作品のファンもいたらしく、その方々に喜んでもらおうと頑張っていました。

原点

soukahan.jpg 公明党の支持団体である創価学会において、多くのことを学ばせていただきました。

 青年部時代は、徹底して訓練を受け、池田・豊能・能勢・箕面そして豊中を担当し、それぞれの地で多くの仲間とともに数々のドラマを築かせていただきました。仕事も鉄相手の体力仕事でしたが、とことんやり抜いてきました。

信条

39_11_17.jpg多くの方々の真心、公明党支持者のご支援に感謝し、師弟の誓いを果たすために、全身全霊を傾けて走りに走っています。

 『ただ』ひたすら池田を愛する情熱の人。
「安心・安全のまちづくり」「ヒューマニズム教育の確立」「豊かな環境の実現」「子育て支援と福祉社会の実現」「新しい文化の創造」を目標に掲げ、未来を託す子どもたちが安心して暮らせる街、市民が誇りを持てる元気で魅力のある池田市をつくるために、誠実に真剣に戦います。

連絡

irust.gif多田隆一後援会

 郵便: 563-0043
 住所: 大阪府 池田市 神田 1丁目 27-20
 Tel: 072-753-6862
 Fax: 072-737-7678
 Mail: mail@r-tada.com

「安全」は、やさしくない。
無事故への、あくなき挑戦。

 子供のころは、素直な性格と長いまつげの愛くるしい面持ちのため、まわりの人に愛されて育ったと思う。
 学校を卒業すると、実家の鍛冶屋を継ぐために工場に入った。

 鋼材を切断する。それを炉の中で1000℃以上まで焼く。真っ白になるまで焼いた鉄をプレスで加工する。火の粉が体に降りかかる。しかし機械を操作しているから振り払えない。ジュッと肌が焼ける。汗はすぐに乾燥して作業服には塩のあとが残るだけ。
 常に危険と隣り合わせの現場で働かされた。いや、働かせていただいた。

「戦場で、ボーっと立っているやつがいたらどうする?」
「・・・・・」
「伏せろ!って言うやろ。そこは危ないからとか説明してたら、その間に死んでるワ」

 だから、口で仕事を教えてもらったことはない。人がやるのをじっと見ていて、仕事のやり方を盗む。真似をしてみる。ダメだったら、白く焼けた鉄が飛んでくる。そうやって仕事を覚えた。

 その後、何度か職場を変わった。議員になる前は、鋼材販売の会社で工場長をしていた。1500トン以上の鋼材をさばき、自分だけでなく、そこで働いている人間の安全すべてを任されていた。若い時に体に叩き込まれた安全に対するノウハウが、とても役に立った。
 仕事に関しては、厳しく頑固な工場長だったと思う。たぶん、社員や客にも煙たがられていたのではないだろうか。
 しかし、安全に関しては絶対の自信を持っていた。退職するまで、大きな事故は一件も起こさなかった。

 「現場」で働いていたから、「現場主義」だとは思わない。
 現場に「足を運び」「耳を澄まし」「考え抜く」こと―――これを徹底するのが本当の「現場主義」だと叩き込まれた。
 今の政治家はそこが分かっていない。とりあえず現場に行けば何とかなると考えている。
 素晴らしいシステムや制度を導入したとして、それが価値を生んでいるかどうか。その人間の「知恵」こそが大切。それがなくてただ単に現場に行っても、意味がない。

 だから視察に行っても、他の議員と見ているところが違う。ついつい、工場長の視線で見ている。役所にいても、町を歩いていてもそうなってしまう。たぶん将来、議員を辞めても死ぬまでそうなんだろうと思う。tada1.jpg
 若い時に、体に叩き込まれてしまっているから。

 いまどき珍しい、こんな「現場主義」が、市民の皆様のお役に立つかも―――そう信じて、安心・安全な市民生活を目指して、あくなき挑戦を続けています。

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