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「無縁社会」への挑戦

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毎年1月に発表される「SGI提言」
本年は第36回目を向かえ「轟け!創造的生命の凱歌」と題して、
①無縁社会のコミュニケーションの空洞化
②ベルクソンに人間主義
③核廃絶への強力な国連中心主義への示唆
④人権文化の創出への三つの提案
等について、提言されています。

提言自体は、大変、奥行きの深い内容でありますが、地方自治体の立場で学んでいきたいと思います。


先日、家に帰ると家族から「藤本さんがニュースで映ってたで!」と報告がありました。
詳しく聞いてみると、今月17日から池田市で始まった高齢者の安否確認を取材したニュースで、安否確認団体のメンバーである藤本さん(公明党の市会議員のOB)が、本人と面会し生活状況などを聴き取り調査をしているところが放映されたそうです。
これは高齢者の所在不明問題を受けて作られた「高齢者の安否確認に関する条例」に基づくもので、本人が不在だったり家族らが面会を拒否しても職員が家に立ち入ることができる全国初の試みです。

 「こういうのは心強いです」(対象者の女性)
 「いいですよ。わたしも風呂場で倒れたこともある」(対象者の男性)
といった内容も報道されたようです。

昨年の9月議会でこのことを取り上げた私としては、高齢者の安否確認調査が無事にスタートしたことは、とてもうれしいです。
しかし、この条例の目的とするところは、ただ単に全ての高齢者の安否確認をすることではなく、家族や地域とのつながりが薄くなった「無縁社会」に対する、行政の一つの挑戦であると理解しています。

「SGI提言」では「無縁社会」について、次のように述べられています。

【「無縁」とは「コミュニケーション不全」ということでもあり、「無縁社会」とは、コミュニケーションの最強、最良の武器であった言葉が、十全にはたらかず、機能不全に陥った社会にほかならない。

そしてその背景には情報化社会の急速な進展があることは否定できない。いわゆる情報化の負の側面―情報量の増大とは裏腹の言葉の空洞化、本来の重みや深みを失い浮遊する符丁のような軽量化、そこから必然的にもたらされる、人間を人間たらしむる対話力の衰退がある。

もちろん、情報科学の発達が一面で、人間同士の新しいつながりの輪を広げる可能性を持っていることは事実です。

しかし、その情報科学を介したつながりが“匿名性”“非人称性”を特徴とするものと化せば、そこには“顔”がなくなってしまう。無機質かつニュートラルで、顔と顔、魂と魂との触発作業からのみ生まれる新鮮な驚き、肉感を伴う手応えや充足感とは縁遠い世界であります。

言葉が相手の心に届いた時の喜び、充足感。届かなかった時の戸惑い、もどかしさ、そして沈黙。沈黙の中で、懸命に新たな言葉を探す忍耐と苦闘。探し当てた言葉がようやく相手に届いた時のさらなる充足感―こうした倦むことなき対話の織りなすグラデーション(徐々に変化すること)こそ、心を鍛え魂を磨きあげていく「溶鉱炉」なのであります。】

今回、池田市でスタートした高齢者の安否確認調査。当面はどうしても会えない高齢者に関してはご近所の証言等でもOKとのことですが、やはり顔と顔を会わせての忍耐強い対話によって、急速に広がる「無縁社会」を打ち破るパイロット事業となってほしいと願うものです。

「言葉の軽薄化」

0219.jpg2月18日の衆議院予算委員会で、倉田池田市長が全国の市長の代表として子ども手当て等について意見陳述をされ、その後、参考人として質問を受けておられました。
私はそれを部分部分ではありますが、市役所の控え室でネットの衆議院TVで拝見させていただきました。
国と地方の関係については、忌憚の無い意見を述べられていて、ある意味、ここまで言って大丈夫なのだろうかと思うほどのストレートな表現もされていました。
政権与党である民主党のマニフェストに対しても「残念ながら、言葉だけが先行しているのではないか」とも言っておられました。

実は、今回は丁度、言葉のインフレ化、軽さについて触れようと思っていました。
これについてSGI提言では、ベルクソン哲学をひかれて次のように述べられています。

【言語による固定化がもたらす過信、軽信は、つまるところ精神の弛緩状態―知的怠惰、固定観念や偏見、ドグマ(教条)の温床になってしまう。
それは、労せずして、手っ取り早く結論を得ようとする安易さ、弱さや怠け心へと、人間を誘い込んでしまうのであります。

私は、かつてその危険性を指摘し、「世間の主義主張には、どうしても(この)“型にはめる”という働きがともなう。われわれの主張は、この定型化ということには重きをおかない。時代と状況の実質把握のほうに重点をおき、そこからどうあるべきかを観察していく」と述べましたが、「定型化」とは「固定化」「空間化」ということと、ほぼ同義語であります。】

最近の政治を見ていると、「米百俵の精神」や「郵政民営化」、更には「大阪都構想」や「ガラガラポン」などに代表されるようにキーワードだけで有権者を扇動する、いわゆる「ワンワード・ポリティクス」が目に付きます。
しかし、今日の倉田市長の発言ではありませんが、政治は言葉だけで“型にはめる”安易さとは対極にある、現実に重点を置いた着実な取り組みこそが大切ではないでしょうか。

「市民のための行政」

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前回の国と地方の関係にも関連しますが、現在進行している分権改革が何をめざしているのかという方向性について、1995年12月の地方分権推進委員会委員長見解では4段階に分けて提示しています。
1 国・地方の関係が変わる
2 行政が変わる
3 地方公共団体が変わる
4 地域や暮らしが変わる

つまり、市民の立場から言えば、これまで国の方を向いていた自治体行政が、市民の方を向くようになると言うことです。
それはとても素晴らしいことではありますが、行政窓口などで実際にそのことが実感できるか。
私は議員として日々行政の方と接する機会が多い立場として言いますと、そうした方向性を模索しながら、非常に努力されていると思います。
議員になるまで持っていた“役所”に対するイメージとは大きく変わってきていると感じております。
しかしそれは現在変化の途中で、民間などに比べるとまだまだの部分があります。

先日、ある身寄りの無い市民の方の、死亡に関する手続きのお手伝いで民間の病院を訪れました。
そこの受付の方の接遇が、これまで私が出会った受付の中では最高に素晴らしく、その姿だけで感動したほどでした。
来客に対する姿勢・言葉使い・表情はもちろんのこと、相手の立場に立っての気遣いや思いやりに溢れていて、かなりの時間待たされましたが全く苦になりませんでした。その間、そのかたの接客振りを見ていたわけですが、どんな方に対しても同じように一生懸命に接しておられました。
帰り際、「素晴らしい接遇ですね。感動しました。」と述べたところ、「とんでもございません。」と言って深々とお辞儀をされている姿がとても印象的でした。

池田市にはそういったことに対してうるさい人事担当の幹部の方がおられて、他市に比べるとずいぶんと進んでいると自負をしていますが、残念ながらそこまで感動するほどの接遇にはまだ出会っていません。
当然、役所の業務と言うのは、法律や条令といったルールにのっとって行われています。
これは絶対的なものであり、相手の状況や担当する職員によって対応がそのつど変わるようでは、公平性にかけてしまいます。
そうした業務の性質上、その対応が冷たく感じられたり、融通がきかないように思われたりすることも多々あると理解しています。

では、どのようにして形式化を打ち破り、実感としての「市民のための行政」を構築していけばよいのか。
SGI提言では次のように示唆されています。

【緊張、集中、努力―これら心の“張り”は、「動くもの」を感じ取り、思考の硬直化を排しながら、時々刻々と変転してやまない「時代と状況の実質把握」を可能ならしむるための、いってみれば精神的な“動体視力”を養い鍛える上で欠かすことができない要因であります。
この“張り”をベルクソンは「確乎として揺るがぬ知的健康」として、次のように精妙に述べております。
「行動への熱意、環境に適応し、仕損じても挫けずに再興する力、嫋かさと結びついた堅忍、可能と不可能とを見分ける予言者の識別力、紛糾した事態を単純によって克服する精神など」と。】

昨年、行政視察に行った愛媛県の松山市では、市役所を訪れる市民の方を「お客様」と呼ぶほど、徹底したサービス精神を基調とした接遇を行っていました。
また、神戸市では、民間のホテルなどの接客のプロを「区民サービスディレクター」として迎えいれ、接遇の向上に取り組んでいるそうです。
池田市では本年から総合窓口システム事業が一部民間委託になります。この機会に形式化・硬直化を乗り越えて、実感できる「市民のための行政」を構築していただきたいと切望いたします。

「本当に苦しんでいる人の目線を取り戻す」

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日頃、市民の方から、市役所や病院についての苦情をお聞きすることがあります。
また、役所の窓口で市民の方が激昂して怒っておられる場面に遭遇することもあります。
しかし、そのどれもがよくよく伺ってみると、そんなに大きな問題でも無い場合がほとんどです。
ですが、そのかたが気分を害したということのみが口伝えに広まり、行政の怠慢と言うイメージが定着してしまうケースもあります。

どうしてこのような誤解や意見の行き違いが起きてしまうのでしょうか。
多くの場合、市民の方は困っている問題や悩み事を相談しているのに、行政側は制度や手続きの説明をしたりしていて、話がかみ合わず感情的になってしまうこともあるようです。
そういった場合、私たち市会議員は市民の代表ですから、市民の方々の気持ちもよく分かります。
しかし、行政側の立場や対応の致し方ない部分も理解できます。

実際に生きて生活している一人の人と、集団や組織を対象としている制度・体制との関係。
このことは地方自治行政の問題にとどまらず、これからの時代における大きな課題であります。
SGI提言では次のような箇所があります。

【その主役は、あくまで人間であります。
それも社会機構や組織の中の一員に倭小化され、意気阻喪した人間ではなく、自己の無限の可能性を信じ、努力と挑戦のなか、自由意志の促すままに、ひたすら自己拡大を続けゆく創造的人間こそ、主役であるにふさわしい。
そのほかの組織や制度、体制などの外的要因にのみ拘っていると、肝心の人間が端役の端役に追いやられてしまう。それがどんな悲劇を生んだかは、20世紀の苫い教訓であります。】

何でもかんでも行政にすがるのではなく自覚と責任に立った市民、(組織や制度・体制中心主義)から(一人の人を大切にする)という意識転換を図る行政、これらがあいまった時に「新しき人類による新しき世の中」が構築されるのではないでしょうか。

更にSGI提言では、極度の貧困と飢餓の撲滅、初等教育の完全普及、ジェンダーの平等と女性の地位向上、乳幼児死亡率の削減、妊産婦の健康改善など、8分野18項目の達成が目指されている「国連ミレニアム開発目標」が、世界的な景気悪化の影響もあって支援のペースが鈍化し、極度の貧困層を半減させるとの項目を除いて、他の残りの目標を期限である2015年までに達成することが危ぶまれている現状を踏まえて、

【忘れてはならないのは、時に後回しにされる支援や対策は、本来、多くの人々にとっての命綱となるはずのものであり、これから生まれてくる世代を守る安全網となるはずのものであったという点です。
ゆえに、地球的問題群への対策がともすれば国益のせめぎ合いに収斂してしまう中で、その重力に抗して、“脅威に苦しんでいる人々の目線”へと引き寄せる力を生み出し、強めていくことが求められます。】

と提言されています。

本当に苦しんでいる人の目線を取り戻す――これは、地方自治行政にとっても大切な視点であると思います。
その時々でさまざまな状況や背景がありますが、行政、そして議会もこの視点だけは決して忘れてはならないと思います。

「池田市の地域分権制度」

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前回まで、地方分権制度の目指すところの「市民のための行政」構築の方向性や意識転換のポイントについて、SGI提言を基に考察してきました。

実は現在の池田市で、これらの方向性が最も求められているのが「地域分権制度」であると思います。
「池田市の地域分権制度」は平成18年の市議会で全員賛成で条例が可決し、19年よりスタートしました。
その内容としては、市内11小学校区に地域内の課題抽出・解決を検討する「地域コミュニティ推進協議会」を設立し、一定の額の中で予算提案をするというものです。
「自分たちのまちは自分たちでつくる」と言う理念の下、予算提案権まで地域に下ろすというまことに画期的な内容で、全国より注目を集めており、多くの市町村から視察に来られています。

しかし制度のスタートから3年。その先取性や理想の高さに反して、さまざまな問題点も浮き彫りになってきました。
この条例の一番の主体であるべき市民の方々に対して、目的とするところの分権型社会の御理解や拡がりが思ったほど進んでいないのです。
当然、「地域コミュニティ推進協議会」に携わってくださっている方々、サポートとして関わってくれている市職員の皆様も懸命に取り組んでいただいています。
ガンジーの言葉に「善いことは、カタツムリの早さで進む」とありますが、主体者である市民の理解と拡がりという壁を乗り越えれるかどうか、ここが正念場では無いでしょうか。

SGI提言では、国連がいかなる「創造的進化」を遂げる必要があるかについてのくだりがあるのですが、とても参考になると思います。

【私は、一にも二にも、NGO(非政府組織)を中心とした市民社会との協働関係を盤石なものにすることに尽きると考えます。
なぜなら、国連という機関の生命の息吹は、憲章の前文で主語をなしている“われら民衆”の文言―なかんずく、その民衆を構成する一人一人にこそ宿っているからです。

この点に関し、今なお深く胸に残る問題提起があります。
国連の創設50周年に際してグローバル・ガバナンス委員会が発表した報告書の一節で、そこには、従来のリーダーシップ観を根本的に改めさせる頂門の一針ともいうべき提唱がされていました。

「私たちがリーダーシップという場合、国内および国際舞台で最高のレベルにある人物だけを指しているのではない。
その意味するところは、活動の場を問わず、人々の啓発に努力を傾けていることである」

ゆえに、NGOや小規模な地域社会のグループをはじめ、民間部門や企業、科学者や専門家、教育界やメディア、そして宗教界にいたるまで、あらゆるレベルでさまざまな人々や団体が「勇気ある長期的なリーダーシップ」を発揮することが求められる――と。
国際政治のリーダーシップが欠けているならば、市民社会が世界を動かすエネルギーの供給源となっていけばよい。

私も、“民衆一人一人がそれぞれの場所で自分にしかできない役割を担うこと自体が、リーダーシップの本旨である”との発想の転換こそ、閉塞状況を打破し、やがては地球をも動かしていく「アルキメデスの支点」となると確信します。
私たちは、戦争と暴力が蹟尨した20世紀の教訓を踏まえ、一人一人がかけがえのない役割を果たし、その連帯を幾重にも広げゆく中で、21世紀を「生命尊厳の世紀」へと築き上げていこうではありませんか。】

池田市の地域分権制度も、その発案者である市長や行政、コミュニティ推進協議会の一部の役員の方がリーダーシップを取っている間は、軌道に乗ったとは言えない。市民一人一人がそれぞれの場所で自分にしかできない役割を担うとの発想の転換に立って、人々の意識啓発に努力を続けていったときに本当の地域分権が構築されるのではないでしょうか。
私も、この条例の可決に賛成した議員の一人として、全国の模範となるような制度に進化してほしいと願っています。そうした意味で、この制度に関わる方々には、是非ともSGI提言を読んでほしいと思います。

「他者の犠牲のもとに自己の幸福を求めない」

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SGI提言では、ベルクソンの人間主義に続いて、核廃絶への示唆と民衆意識向上への期待について言及されています。

【ともすれば核兵器の脅威は目に見えず、日常的に感じられない面があるため、多くの人々にとって差し迫った不安というよりも過去に起こった悲劇として受け止められがちであることは残念ながら否めません。
 だからこそ、その壁を打ち破るためには、非人道性や脅威に対する認識にとどまらず、核兵器に覆われた世界で生き続けることが、いかに不条理かつ非人間的で、核兵器の存在が構造的暴力としてどれだけ世界をゆがめているかを見つめ直す必要があります。】

日本のスタンスはどこまでも非核三原則(核を作らない、持たない、持ち込ませない)維持であります。
しかし現実は、日本は非核国であっても米国の核の傘に入っていると認識されています。
ですから、新しい防衛大綱では、日本の核政策は、
(1)非核三原則を堅持する
(2)核軍縮・不拡散のために積極的に取り組む
(3)米国の拡大抑止能力を支持する
(4)弾道ミサイル防衛などによる努力を進める
という4本柱から成っています。
これは米国に対しては、一方で非核三原則を厳守せよと言い、他方では核保有国に囲まれた日本を守ることを求めるという、矛盾したものとなってしまっています。

さらに菅政権は、今後5年でおよそ23兆5000億円を軍事にあてる、つまり5年間は防衛費を実質いまのままということを盛り込んだ「中期防衛力整備計画」を閣議決定しました。欧米がそろって軍事費を減らしていこうとしているいま、現状維持は目立ちます。
つまり核兵器の脅威などは、決して過去に起こった悲劇ではなく、今現在、リアルに自分達にかかわる問題なのです。
(上記地図は、東アジアをこの角度から見ると、核保有国などが太平洋を望むときに、いかに日本が目の上のたんこぶとなっているかが、よく分かります。)

SGI提言では、戦争の最大の被害者は民衆であり、そこに自国や他国の境は無いとの立場から、次のように述べています。

【大切なのは、同じ地球に生きる人間としての良心に照らして、どの国の民衆であろうと核兵器の犠牲となる事態を起こしてはならないとの意識に目覚めることです。
そして、一人一人がその信念に基づいて、
「ゆえに私は、核兵器の脅威の下でこのまま生き続けるのではなく、『核兵器のない世界』を自らの手で建設することを選択する」
との声をあげ、それを積み上げていく―
その“民衆による選択の重み”を、核兵器禁止条約の依って立つ法源としていく運動を目指すべきではないでしょうか。】

では、市としては何ができるのでしょうか。
昔話に、家が火事になっているのに、それに気づかずに遊びに夢中になっている子ども達のたとえ話があります。
昨日の若泉敬氏を主題としたテレビドラマでも、日本を「愚者の楽園」にしないため、精神的な「根無し草」にしないため、そう念じ行動し続けた氏の生き様が紹介されていました。
これからの社会の中心となる若い世代の人たちに対して、核の脅威を過去に起こった悲劇として風化させない努力・取り組み。
これを模索し続けることではないでしょうか。

「民主主義を拡大するための運動」

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SGI提言では、続いて人権文化の建設について述べられています。

昨年の総合計画の審議の折に、“人権問題”についても審議をしたのですが、あまりにもその内容が部落差別や民族差別と言った内容に偏っていて、違和感を覚えたほどでした。
私はこれまで“人権”というのは、自分の大切さとともに、他の人の大切さを認め、全ての人の幸福と社会の安穏を目指す基本的な考え方であると理解をしておりました。
それが、差別問題のみに固執してしまうと、臭いものには蓋をするではありませんが、過去の社会的問題を解決するための制度の構築が主題となり、その制度が出来上がってしまえば“人権問題”は終わりだと言う姿勢が感じられたのです。
私はこれは違うと思います。SGI提言に次のような箇所があります。

【私は現在、マーチン・ルーサー・キング博士の盟友で人権運動に長年挺身されてきた歴史学者のビンセント・ハーディング博士と対談を進めています。
その中で博士が提起した言葉は、人権文化の建設を展望する上で極めて重要な指針として胸に迫りました。

――「公民権運動」という言葉は、自分たちが携わってきた運動を表すものとしては不十分である。
なぜなら、次の世代が“これだけ多くの法律が成立したのだから、もうこれで終了だ”と、運動を過去の歴史として受け止めてしまいかねないからである。
そうではなく、「『民主主義を拡大するための運動』と言えば、次の世代は、自らが受け継いだもの以上に、民主主義を拡大させていく責務があると自覚できるでしょう。この責務は、ずっと継続していくのです」と。

法律になったから人権が尊いのではない。
法律を勝ち取る闘争そのものを精神的な法源とし、その精神を継いでさらに運動を拡大する担い手が陸続と続くからこそ人権は輝く。】

今後、池田市が“人権”というものに取り組むときは、こういった視点をもっていただきたいと思います。

「社会変革への無限の力」

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前回に続いて“人権”について学んで行きます。
とても重要な内容だと思うので、原文をそのまま引用させていただきます。

【人権は知識として学ぶだけで、人々の心に定着するものではありません。
そのことは、国連人権高等弁務官事務所がまとめた小中高校向けのガイドブックでも明確に記されています。

 「最高の能力と細心の注意を持って教えたとしても、文書や歴史だけで、人権をクラスに根づかせることはできません」
 「(人権に開する)文書の重要性を単なる知識としないためには、実生活での経験という観点から人権にアプローチし、正義、自由、平等に対する生徒自身の理解を養うような形で取り組む必要があります」

例えば、子どもたちが身近な場所でいじめを前にした時、いじめに加勢しないだけでなく、止める側に回ることができるのか―
そうした日々の現実との格闘なくして、人権感覚が錬磨されるはずのないことは、何も学校教育に限らず、すべての人々に当てはまるものといえましょう。

私は、その礎となるのは「胸を痛める心」のような良心であり、どんな状況に直面しても自らに恥じない「最良の自己」であろうとする信念が重要な支えになると思います。

人権がどれだけ法律で保障されても、それが多くの人にとって外在的なルールや他律的な道徳として受け止められている限りは、人々を守る大きな力とはなりえません。

ガンジーが自己の信念について「非暴力は、意のままに脱いだり着たりする衣服のようなものではない」と叫んだように、“ひとたびそれを破れば、もはや自分ではなくなる”との誓いにまで昇華されてこそ、人権規範は社会を変革していくための無限の力の源泉になりうるのではないでしょうか。】

「人権規範は社会を変革していくための無限の力の源泉になりうる」とは、一見すれば誇大な表現のように見えますが、決してそうではありません。
人権感覚が錬磨された人々が社会の中心になっていけば、現代の社会形態を根本から脅かす問題群となっている“ニート”や“フリーター”さらにはうつ病などに苦しむ人々や、増え続ける生活保護受給者問題などが改善されます。
それに伴い、歯止めなく増え続ける社会保障費や医療費の抑制にもつながります。

それだけではありません。
自分の大切さとともに他の人の大切さを認め、全ての人の幸福と社会の安穏を目指すといった考えに目覚めた人々が増えたときにこそ、いまの池田市が取り組み始めている「地域分権制度」や「高齢者の安否確認」など、地域や民間の力を活かした社会形態の構築が本物となるのではないでしょうか。

昨年、池田市立の高等学校の案が出たときに倉田市長が次のような展望を話しておられました。
――池田市で生まれ、池田市の小中一貫教育、そして高校。大学は地元の大学を出て、市内の企業に勤める。そして池田市を愛し誇りに思い、地域社会に根を張って尽くしていく。そんな“ゆりかごから墓場まで”池田市でよかったと言って頂ける市にしていきたい。――と。

いまの池田市の学校で学ぶ子どもたちが社会の中心者となる、10年先20年先を見据えて、そんな良心や信念を持った人材が陸続と続くよう、多大な努力と忍耐を要するとは思いますが、真剣に人権教育に取り組んでいくべきだと考えます。

「人道的競争」

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SGI提言では、「人権文化の建設」の締めくくりとして、創価学会の牧口常三郎初代会長の「人道的競争」という概念を取り上げています。
牧口会長は100年以上も前に、「人道的競争」こそ今後の人類の進むべき道であると指摘しました。軍事的競争でもなく、政治的競争や経済的競争でもなく、いかに人類に幸福をもたらすかの競争。今求められているのは、こうした人道的競争を担う創造的人間の育成にほかならないというのです。
「人道的競争」については、2009年の第34回のSGI提言で詳しく述べておられますので、そこから引用します。

【その中身に目をやれば、短い記述のなかに、今なお新しいというよりも、時とともに輝きを増す洞察がちりばめられております。

例えば、「武力若くは権力を以てしたると同様の事をなしたるを、無形の勢力を以て自然に薫化するにあり。即ち威服の代わりに心服をなさしむるにあり」と。
このくだりなど 私の知友に引き寄せていえば、何度かお会いしたハーバード大学のジョセフ・ナイ教授の「ソフト・パワーとは何なのか。それは、強制や報酬ではなく、魅力によって望む結果を得る能力である」との指摘と、瓜二つではないでしょうか。

また、牧口会長の言葉に「要は其目的を利己主義にのみ置かずして、自己と共に他の生活をも保護し、増進せしめんとするにあり。反言すれば他の為めにし、他を益しつつ自己も益する方法」とあります。
これは、アメリカの未来学者ヘイゼル・ヘンダーソン博士の提唱する"Win-Win World"(皆が勝者となる世界)と強く響き合っていないでしょうか。
あらためて、若き牧口会長の洞察に思いを致さざるをえないのであります。

残念ながら、その後の歴史は牧口会長の期待を裏切ってしまったが、100年の歳月を閲した今こそ、「人道的競争」という先見的着想、ビジョンへと、パラダイム・シフトしていくべき"時"であると声を大にして訴えたいのであります。】

声の大きなところ、権力を握っているところ、お金を持っているところ、これまではそういったものを目指して人も組織も競い合ってきましたが、その結果がいまの閉塞感溢れる社会となってしまいました。
これからは、活力の源泉である「競争」的側面を直視しつつ、むしろ人道という価値を基盤に置く競争に転換し、「人道」と「競争」の両方の価値を相乗的に顕現させようとする「人道的競争」こそが、時代の閉塞感を破る突破口となりうると考えます。

そうした価値観に立って池田市を考えてみると、池田の人道的な市民性はおおいな財産であり、それを更に伸ばしていく努力をすることにより、これからの社会の中でリーダーシップを取っていけるだけの「競争力」は充分に発揮できると自負いたしております。

終りに

これまで9回にわたり、第36回「SGIの日」記念提言について学んでまいりました。
本来、SGI提言は、世界人類の将来にわたる課題に対しての提言であります。
しかしその内容は、多くの課題を抱える地方自治体にとっても非常に有益なものであり、示唆に富んだものであると感じました。

先の見えない国と地方の関係、急速に進む少子高齢化や、それに伴って拡大する社会保障費や医療費、度重なる行財政改革によるマンパワーの減少、老朽化したインフラ整備の更新等々、地方自治体が抱える課題は、決して楽観視できるものではありません。
社会全体においても、これまでの不変と思われていた枠組みが次々と崩壊して行く中で、多くの企業や団体が生き残りをかけての必死な模索を始めています。
旧態依然とした価値観から脱却できないところは、どんどんと衰退し、逆に新しい力や発想を吸収し果敢にチャレンジしていく息吹あふれるところは大きく成長することができるチャンスであるとも言われています。

私たちの住む池田市は、大阪の北部に位置する人口10万の小さな都市ではありますが、倉田市長の卓越したリーダーシップの下、これらの諸課題に対しても先駆的な挑戦をし、全国からも注目を浴びております。
このような土壌を持った池田市だからこそ、SGI提言で示された人類の宝ともいうべき知恵を現実の形として展開し、全国の模範となるような行政形態を構築できると信じております。

私が今回このSGI提言に取り組む中で、次のことを学びました。
・世の中は常に動いていて変転している。
・現在、ベストと思われる政策も、それは“今”の状況に対してであり、将来にわたってベストではありえない。
・ゆえに思考の硬直化を廃して時代の流れを読み、柔軟にそして張りをもって対応して行く必要がある。
・それは“人”についても同じで、次代を担うリーダーを育成輩出し続けていかなくてはならない。
・力、権力、金ではなくて、この"人”の競争に勝つために、人権感覚あふれる民衆の連帯構築に取り組むべきである。


更にSGI提言では、その"人”の育成や、民衆のパワーを引き出す方法として、精神的・宗教的なアプローチのしかたについても言及されています。
『一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらには全人類の宿命の転換をも可能にする』
この思想のもと、SGIはどこまでも一人の人間に光を当てて、無限の可能性を開く活動に取り組まれています。

今回のこのブログ記事は、市会議員である私が、多くの課題を抱える地方自治体の将来展望について『SGI提言』から学ぶという趣旨なので、そうした部分には一切触れませんでしたが、大変重要な内容について述べられておりますので、是非拝読していただきたいと思います。
私自身、市民の代表という立場で活動させていただいている立場からも、今回このように『SGI提言』の学習に取り組んだことはとても大きな力となりましたし、このブログ記事を読んでいただいた皆様にとっても何らかのヒントやプラスになればと願い、そして何よりも池田市の将来に対し、希望や喜びの灯となることを心から願います。
そして、まずは私から自身の向上に挑戦し、他の人の幸福と社会の安穏を目指す目覚めた市民となることをお誓いいたします。